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昔はこんな薬もありました 22

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~ 肝油 ~



  • 『肝油』とは真鱈や助宗鱈などの鱈(たら)や鮫(さめ)などの魚類の肝臓から取った油のことで、脂溶性のビタミンであるAとDを豊富に含有します。 ビタミンAの欠乏は発育不良や夜盲症(とりめ・鳥目)、皮膚の角質硬化の原因となり、またビタミンDの不足はカルシウム代謝に影響し佝僂病(くるびょう)の原因となったり歯の発育不良をおこします。

  • 昔よりエスキモーや北欧、グリーンランドの住民たちは肝油を強壮剤として用いてきたようですが、18世紀になると上記の欠乏症に臨床的に用いられるようになりました。

  • 『肝油』は我国には明治10年(1877年)頃にノルウェーから大阪の居留地に輸入されたのが初めで、明治17年(1844年)頃には大阪の薬種問屋に奉公していた伊藤千太郎によって初の国産化に成功しました。

  • 当初は『純良肝油』と称して販売していたものを明治24年(1891年)には教えを受けた居留地のドイツ人よりもらった鼻メガネをデザイン化して『眼鏡肝油』と改めて発売しました。

  • コレクションの一番はじめは立派な『眼鏡肝油』です。 昭和の戦前ものと推測されるこの製品には“肝油の知識”という小冊子と数多くの博覧会にて受賞をしたことが書かれています。
    また添付の陶製の猪口には“今日も明日も欠かさずのんで 強いからだになりませう”と書かれています。

肝油

肝油
右の眼鏡肝油提供の“花詩集”は年代不詳ですが、宝塚少女歌劇の講演目録が書かれており昭和の戦争前のものと思われます。( デザイン的にすぐれたもので、ヒロインのサインが描かれています。)

肝油



眼鏡肝油本舗寄贈)と書かれている左の茶色い封筒は、昭和10年の肝油服用費領収證封筒で学校で集団で肝油を服用していたころの資料で、学校で集団で肝油を服用していた時代のものです。

  • 次のコレクションは“みつわ肝油”(丸美屋商店)です。
    眼鏡肝油をはじめとするビタミンA・Dに富む肝油は20世紀の初頭には多くの医師が保健強壮剤として推奨していましたが、それは魚の生臭さを持っていたため服用しにくいという欠点がありました。

  • 現東京薬科大の前身の私立薬学校を首席で卒業後、平塚杏雲堂薬局の薬局長として勤務していた河合龜太郎氏は自己の闘病体験からこの肝油製剤の改良研究に精魂を傾け、「ミツワ研究所」の主任研究員に就任、子供にも服用しやすく安定したゼリー状のドロップ式の肝油製剤の製造に成功、明治44年(1911年)に『ミツワ肝油ドロップス』と名付け製造販売を始めました。

  • その後河合氏は大正12年(1923年)に(現)河合製薬株式会社の前身の河合製薬所を翌年には河合研究所を設立、昭和に入ってからは“ 健康なくして教育はありえない。 ”との信念のもと学校用肝油ドロップの製造を始めました。
    (河合龜太郎氏は昭和7年から18年の間、第11代の日本薬剤師会会長を勤めました。)

  • コレクションには『肝油ドロップス』(詳細パンフレット付)、『肝油ドロップス』と『強力肝油』の店頭ディスプレイと思われるものと、『肝油ドロップス』『ヴィタミン肝油球』の詳細パンフレットがあります。

肝油

肝油

肝油

肝油

肝油

“みつわ”というと“ワ、ワ、ワ~、ワがみっつ…ミツワ石鹸”の唄の1960年代の人形TVコマーシャルで有名ですが、ミツワ石鹸は経営不振により昭和50年に倒産、石鹸部門はP&Gが継承したとのことです。

  • 肝油製剤は戦後の昭和30年代に最盛期を迎えたようですが、最後にご紹介するコレクションは河合製薬の肝油ドロップの缶コレクションです。 そのうちの一つには「製缶課」のシールが貼ってあり、メーカーの製缶課が製造した缶を記録として保管していたものが骨董市に何らかの事情で流れてきたものと推測されます。 (そのうちの一つの冬のスポーツにはスキー、スケート、スキージャンプなどの絵が描かれていますが、スキージャンプは両足をそろえた姿勢で飛んでおり時代を感じさせるものです。)

肝油

肝油

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〔参考文献〕
・『伝承薬の事典』   町田 昶      (東京堂出版)


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