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〔日本のマスクの歴史概説〕 日本のマスクの歴史と、独特な「マスク文化」の形成について

現在新型コロナウイルス感染症蔓延により世界的レベルで大変な状況が続いていますが、最近日本のマスク事情(なぜ日本人にはマスクが受け入れられているのか?)について問い合わせや取材が多く、あらためて〔日本のマスクの歴史〕について纏めましたので、掲載したいと思います。

(本記事は、立川市薬剤師会会報で数回に渡って掲載された記事をホームページ用に再構成したものです)

=目次=

(プロローグ)

[日本のマスク変遷史]

(Ⅰ)マスクの機能の進歩や発展から見たマスクの歴史
 (1)マスクの歴史
   (1)第一世代《[呼吸器](レスピラートル)/金属素材使用の時代》
   (2)第二世代《[蛇腹型]/セルロイド素材普及の時代》
   (3)第三世代《[カラス天狗型]普及の時代》
   (4)第四世代《戦中、戦後の混乱の時代そして現代》
 (2)マスクの進歩の発展の歴史に影響を与えた要因、背景について
   (1)材質の観点から
   (2)歴史(感染症・経済・戦争…)的背景の観点から
   (3)消費物資の発展パターンの観点から
     1.機能分化
     2.大衆消費物質の二極化、差別化

(Ⅱ)日本の独特なマスク文化の形成・発展から見たマスクの歴史
   (1)日本人の生活習慣の観点から
   (2)日本人の感性・文化の観点から
     1.日本人はなんでも美術品・芸術品にしてしまう。
     2.外来文化を加工・改良し独自の発展をさせる能力。

(エピローグ)


〔日本のマスクの歴史概説〕
「日本のマスクの歴史と、独特な「マスク文化」の形成について」

(プロローグ)

「万病療治所」と題する江戸時代当時の治療法を紹介した錦絵があります。
そこには薬味箪笥の前で煎じ薬を調合する医師や、鍼灸、按摩などの施術風景とともに、頭痛などで治療を求める患家のなかに手拭いで口を覆った町人の姿が描かれています。

この様な口覆い(くちおおい)の行為は江戸の昔から病の時は口を覆うことを行っていた証(あかし)と推察され、また後世幕末から文明開化期にかけて日本に伝わることになる[呼吸器]そしてその後の今日に至る[マスク]の発展と世界的規模での普及につながる錦絵とも言えます。

そもそも日本人は古(いにしえ)から神事の際には穢(けが)れた息がかかるのを避けるため、榊葉や和紙を口にはさんで奉仕したように口を覆う行為には抵抗なく慣れ親しんできましたが、本編では日本における近代の「マスク」の変遷と、独特な発展をとげた日本の「マスク文化」の成立の謎と流れをコレクションをもとに解明してゆきたいと思います。





[日本のマスク変遷史]



「日本のマスクの歴史と、独特な「マスク文化」の形成について (その2)」

 例えば車や飛行機の発展はその性能向上(+安全性)の視点からたどれば、それは一直線若しくは上昇曲線のような上向きの歴史をたどっておりある意味単純で理解しやすいのですが、それに比べますと「日本におけるマスクの歴史」は、これから触れて行くようにさまざまな要因が複雑に絡み合って、紆余曲折の歴史をたどり今日の日本のマスク事情へとつながっています。
 そこで先ず前号で紹介した[日本のマスク変遷史]の図で示した四世代にわたる「マスクの歴史」について触れてゆきたいと思います。

(Ⅰ)マスク本来の進歩・発展から見た「マスクの歴史」
(1)「マスクの歴史」
➀ 第一世代《[呼吸器](レスピラートル)/金属素材使用の時代》
  • その歴史は輸入品(舶来品)の[呼吸器]から始まります。
    [呼吸器](レスピラートル RESPIRALTLL)とは本来は炭鉱や工場、建設現場などでほこりや粉塵を防ぐ、つまり防塵目的の器具「工場マスク」で、真ちゅうの金網に布地を張り付けたもの、金属の網と布で空気を濾過するものでした。


    〈いわしや〉の新聞広告 明治12年(1879年)
    (A-1)

    [呼吸器](レスピラートル RESPIRALTLL)

  • このコレクションの[呼吸器](レスピラートル RESPIRALTLL)は明治12年(1879年)の医療器具商〈いわしや〉の新聞広告の[呼吸器]と同時代のもので、現存する一般大衆向けのマスクとしては国産最古の[呼吸器](マスク)です。(:[呼吸器]の時代
  • この広告にあります「いわしや」は今をさかのぼる事370年以上昔の寛永年間(1624~1644年)に泉州堺において鰯(いわし)の子を販売していた【鰯屋】がのちに江戸に薬種店(やくしゅだな)を開業、寛文3年(1663年)に江戸薬種問屋の仲間入りをはたし「いわしや」の号(店名)として薬種とともに医療機器を販売したのが起源とされています。
    当時の日本橋本町界隈には薬種問屋が軒を連ね店先を屏風で仕切り草根木皮を薬研で引くなど、日本橋三丁目に足を踏み入れると薬(生薬)の匂いが漂っていたと言われています。
    〝割床で薬種ひひてる三丁目〟(江戸川柳)
    嘉永7年(1854年)で薬種問屋だけでも16軒もありました。(現在でも日本橋界隈には製薬メーカーが軒を連ね、武田薬品・アステラス・第一三共・中外製薬・千寿製薬・鳥居薬品・わかもと製薬・興和新薬などの本社・東京支店があり、「藥祖神社」が祭られています。)


    日本橋本町薬種問屋(江戸名所図)

     

     
    「藥祖神社」

  • なお大阪の道修町(どしょうまち)、京のニ条も薬種の町として有名ですが、当初は(日本橋)本町は(国産)民間薬、道修町は唐物の輸入販売を商う薬種町として知られていました。
    その後のれん分けにより「いわしや」の商号を持つ業者が昭和30年代には8社にも上り、現在でも45社ほどが「いわしや」の流れを汲んで存続しており、うち30社にて親睦団体「平成いわしや会」が設立されています。
    なおこの〈いわしや〉(レスピラートル RESPIRALTLL)の新聞広告には次のような文明開化後の日本の、そして極東に位置する我国の外来文化に対する接し方とその発展の典型、つまり「取り入れてそれ以上の物を作る姿勢」が見られます。
    〝…(輸入)各種中最良なものを選んで、実用に経験してさらに改良を加え舶来の物に劣らず、価格も廉価で…(一部意訳)〟
  • この[呼吸器]には空気を濾過する目的で金属の網が用いられていますが、金属を用いるのはあながち無意味なものでは無く、現在でも銅、銀、チタンなどを使用した金属の持つ抗菌作用を利用した抗菌グッズもあります。 一方吐息などでサビたり、重いなどの欠点もありました。
  • なお当時の日本に[呼吸器]を紹介し広めたのは、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」(:胡蝶(バタフライ)の夢とは故事成語の一つ。無為自然)にも登場する初代の陸軍軍医総監(明治6~12年)の松本順(改名前は松本良順)で、松本順は[呼吸器]の他にも牛乳の飲用を奨励したり、海水浴の効用もすすめ海水浴場も作ったと言われています。 なお大磯の邸宅にて逝去、享年75歳でした。

  • 松本順(松本良順)

    松本良順は幕末の蘭学者で奥医師(:将軍はじめ御台所、側室の主治医)の地位から幕府方の軍医としての戊辰戦争、会津戦争を経て投獄、明治2年(1869年)に赦免後、山縣有朋の推薦、抜擢により当時の兵部省(国防省)に出仕、明治6年(1873年)には大日本帝国陸軍の初代軍医総監(:軍医官の最高位)となった波乱の人生を送った医師で、明治38年(1905年)には男爵の爵位を受けました。
    松本良順の父は「佐倉順天堂」を開設した佐藤泰然(:東京薬研堀に現在の順天堂大学医学部の前身の蘭方医学塾「和田塾」も開學。)で、のち蘭方医の松本良甫の養子となり松本姓を名乗ったわけですが、義兄には東京順天堂の2代目堂主、順天堂医院の二代目院長の佐藤尚中、遠縁に榎本武楊。森鴎外などがいます。
    なお売薬の世界でも松本順(松本良順)は登場します。
    日本医薬品製造社
    「征露丸S」
    日本賣藥株式会社「シベリア」「六神丸」預け袋

  • そして次章では、スペイン風邪の流行をきっかけとしてセルロイドの素材を利用した第二世代とも言える[蛇腹型]マスクが大量に普及しますが、それまでのつなぎとして国産[呼吸器](レスピラートル)以降口あて部分のメッシュに主に金属や麻と思われる素材を用いたマスクが作られました。
    なお「マスク」という言葉はスペイン風邪の流行当時(大正7~8年(1918~1920年))に日本でも登場し、外来語を好む国民性もあって一般に「マスク」という言葉が普及しますが、それまでは次のように呼ばれていました。
     ・呼吸器(レスピラートル RESPIRALTLL)
     ・口覆器(マスク)
     ・呼吸保護器(くちおほひ・くちおをひ)
    また、ガーゼマスクや現代の不織布(ふしょくふ)製、ウレタン製のマスクが使われるようになる以前のマスクでは、内側にガーゼそのものか、硼酸(ホウ酸)を染み込ませたガーゼをあてて使用していました。
  • 今月号に登場した時代のマスクを
    ➀ 第一世代《[呼吸器](レスピラートル)/金属素材使用の時代》と称したいと思います。

    マスクコレクション
    (A-2)
       

    (A-3)
       

    (A-4)
       

    (A-5)
       

    (A-2)(A-3)は同じメーカーのものですが、(A-2)は口にあたる側には金属の網が使われており、(A-3)(A-4)(A-5)は麻のような繊維の網が張ってあります。
    写真ではわかりませんが、いずれのマスクも表面のすぐ内側には整形のために金属性の板が張ってあります。


「日本のマスクの歴史と、独特な「マスク文化」の形成について (その3)」


(Ⅰ)マスク本来の進歩・発展から見た「マスクの歴史」
(1)「マスクの歴史」
➀ 第一世代《[呼吸器](レスピラートル)/金属素材使用の時代》:前号まで
② 第二世代《[蛇腹型]/セルロイド素材普及の時代》      :今月号

  • 前号では輸入品の[呼吸器](レスピラートル RESPIRALTLL)を改良した国産最古の[呼吸器](マスク)とそれに続いた金属を用いたマスクを紹介しました。
    [:➀第一世代《[呼吸器](レスピラートル)/金属素材使用の時代》]
    前記のようにその裏側(:口の当たる口あて部分)には金属などを使った網が張られ、また口あて部分や外側の成形部分に金属を使うためサビたり、重いなどの欠点もありました。(さらにその内側、つまり直接口に当たる部分にはガーゼそのものか、硼酸(ホウ酸H3BO3)を染み込ませたガーゼをあてて使用していました。)

  • 本章では金属(網)のマスクの時代のあとに続く材質にセルロイドを使った第二世代のマスクを紹介します。
    合成樹脂のセルロイドは1856年にイギリス人によって発明され、日本では1908年(明治41年)には国産化されました。
    玩具、文房具、工芸品、生活雑貨、レコード、映画フィルムなど多方面でセルロイドが普及してきますと「セルロイドの価格の低下」をもたらし、マスクにも外側の成形部分は金属で作り、特に口あて部分にはセルロイドを使ったり、またセルロイドだけで成型をしたマスクが登場するようになりました。
    いわば技術革新による新素材を使った第二世代の新製品が登場したわけです。
    第二世代の新製品といえどもその製造にあたっては布製の外皮の成型に金属やセルロイドを用い、特に口あて(:口のあたる)部分にはセルロイド(:穴があいている。)を使って全体の成型をして、さらに紐をつけるなどするためその製造には手間がかかったかと思われますが、布と金属だけからなる第一世代の製品に比較しますとより軽く作ることが出来ました。
    またセルロイドは(:軽い。サビない。)などの利点の他に加工や成型がしやすいことから、裏面の口あて部分に会社のロゴなどをデザインしたり、立体成型して、眼鏡の曇らないマスクなどが工夫、製造されました。
    以上この時代を②第二世代[蛇腹型マスク]普及の時代と称したいと思います。
    この第二世代[蛇腹型マスク]の時代に日本の社会、一般大衆にマスクが普及、浸透して行きますが、そのきっかけは「スペイン風邪」の世界的規模での大流行でした。
    つまり「スペイン風邪」流行の当時に使われていた市販のマスクはこれらの形状の、製品の一部にセルロイドを用いた第二世代の[蛇腹型マスク]で、それに市民による手作りマスクが盛んに作られ使われていました。

  • = 「スペイン風邪」について =
    「スペイン風邪」(スペインインフルエンザ、パープルデス「紫死病」)とは、現在世界中で流行が蔓延している新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの丁度100年前の1918年(大正7年)から1920年(同9年)にかけて世界的な規模で大流行した感染症で今で言うところの新型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)感染症であったことが判明(当時では新興感染症)していますが、過去この型に免疫のある人類がいなかったため、当時の世界人口の4分の1に相当する5億人が感染し700万人から5,000万人(:1億人の可能性もあり。)が死亡したと推計され、その影響で第一次世界大戦は終結せざるを得なかったとも、また米国では最初の1918年には平均寿命が12歳も低下したとも言われています。
    (ただし罹患率の高さ(感染数の多さ)からすると死亡率は罹患者の2%、全人口の0.8%程度と推測されています。なお米国等での第二波の3%という死亡率や重症化の上昇は強毒化への変異の結果ではなく、特許切れにより大量に生産されたアスピリンの過剰投与によるサイトカインストームの惹起、肺水腫による結果との説もあります。)
    その流行の実相は
     ・「史上最悪のインフルエンザ(忘れられたパンデミック)」(アルフレッド・W・クロスビー)〈みすず書房〉
     ・「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ(人類とウイルスの第一次世界戦争)」(速水融解)〈藤原書店〉
     ・「流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録」(内務省衛生局 編)〈東洋文庫〉
       
    などの成書をお読みいただければさらに理解が深まると思いますが、我国でも2380万人が罹患し39万人が死亡しました。(45万人との推計もあり。)
    当時は抗ウイルス薬(抗インフルエンザ薬)は勿論のこと、抗生物質、抗菌剤もなく、ウイルスに有効なワクチンもありませんでした。
    最終的には感染しても生き残った人々が抗体を獲得し集団免疫を形成して新規患者数が減少して収束しました。
    その様な「スペイン風邪」禍の状況下の写真をご覧ください。


    カンザス州の陸軍病床

    シアトルの警察官のマスク姿

    マスク姿の看護婦たち


    マスク姿の看護婦たち

    警察官のマスク姿

    マスク姿の紳士

    当時の我が国では内務省衛生局が中央の衛生行政を担っていました。 (そして地方の衛生行政は明治26年(1893年)の地方官官制の改正によって、地方衛生行政は府県警察部衛生課の管轄となり、〈中央〉内務省衛生局→〈地方〉府県警察部衛生課という中央集権的な衛生行政機構が確立されていました。)
    そして現在の厚生労働省にあたる当時の内務省衛生局は次のようなさまざまなポスターを作成して国民を「スペイン風邪」から防御するためのキャンペーン、啓発活動を行いました。


    これらのポスターではマスクの着用が積極的に薦められており(「マスクとうがい」)、それは感染を防ぐ意味(「マスクをかけぬ命知らず」)と感染を広げない意味(「手放しで咳をされてはたまらない」)の二つの目的から薦められていたことがポスターから読み取れます。
    「スペイン風邪」を10歳で体験された曻地三郎(しょうち さぶろう)翁(明治39年/1906年~平成25年/2013年、107歳でご逝去。)は当時の事を
     〝恐怖でした。〟〝喉にガラスが刺さったような痛みがあった。苦しかった。〟
     〝患者は戸板にくくり付けられて避病院へ運ばれていった。〟
     〝あっちこっちでも、本当にコロッと死んでしまった。それもボロボロ(次々)と〟
    と回想し、「スペイン風邪」が「うつる病気」と認識された頃から登場してきた「黒いマスク」のことを「…このマスクをしているとスペイン風邪に罹らないと言われていたし、実際このマスクをしていると罹らなかったようだ。…」(:後述)と回顧されています。
    (:興味で当時のマスクを解体してみた曻地三郎少年は、中はいくつもの穴の開いたセルロイドから出来ていたと回顧され、後日TVの取材で筆者所蔵の[蛇腹型]マスクをつけてみた曻地翁はこの様なこんなマスク(第二世代[蛇腹型マスク])だったと言われております。
    この「スペイン風邪」と同時代と推測される埼玉縣の作成した流行性感冒の予防心得のポスターにも「マスク」の効用が書かれており、手作りでマスクを作ることが推奨されています。
     〝注意すれば罹らぬ=如何にせば(略)
       二、人込みの中や病人に近づく時は必ず呼吸保護器(くちおおい)を掛けるか
         鼻や口をハンケチ手拭いなどで軽く被いなさい。
         呼吸保護器はガーゼ七寸と紐一尺で出来ます。〟
    なおこの広報に書かれている内容は現代の新型コロナウイルス感染症の予防にも十分に当てはまるものだと思います。

    《埼玉縣広報》

    このようにこの時代には感冒の予防には「マスクを着ける」ことが一般大衆にも広く浸透しましたが、全ての需要を市販のマスクでまかなうことは不可能なので、また価格などから購入も難しいこともあり上記の《埼玉縣広報》や次の新聞記事に見られるように当時も現代と同じく需要の高まりに乗じた便乗値上げもあり、官民あげて幅広く手作りマスクの手作りをすすめていたことが分かります。
    このような動きは新型コロナウイルス流行する現代も100年前のスペイン風邪流行の当時も変わらない世情と思われます。

    《便乗値上新聞記事》など
    大正9年(1920年)01月18日 読売新聞

    大正8年(1919年)02月18日 読売新聞


    大正9年(1920年)01月18日 読売新聞
    大正9年(1920年)01月22日 読売新聞

    では当時の日本人のマスク姿をご覧ください。
    ほとんどが自家製の手作り(ガーゼ)マスクと思われます。

       

    なお「スペイン風邪」は感染者は多かったものの、罹患者の数10%が死亡するペストやコレラなどに比較すると死亡率は2%程度で、集団免疫が獲得され3年間の流行が去ったあとには嵐の去った後の静けさのように元の流行に戻ることは無く(:集団免疫獲得のため。)、また(悪いことは)は忘却してしまいたいという心理状態もはたらき「スペイン風邪」のパンデミックは忘れ去られてしまい、後世に感染症パンデミックの恐ろしさの記憶が残ることなく100年後のコロナ禍を迎えることになります。
    また当時の世界の関心事は第一次世界大戦とその終結や1920年の国際連盟の設立や新世界秩序のあり方、アメリカの台頭などの話題の方が勝り、日本国内の関心事も明治43年(1910年)の朝鮮統治、中国山東省権益確保、南洋諸島の統治権獲得、国際連盟常任理事国入りや、その後に発生した大正12年(1923年)の関東大震災などの大災害も「スペイン風邪」を忘れられたパンデミックとしてしまった要因といわれています。
    なおこの時代に市販されていた黒いマスクは高価(3500円位)であったため、内側にあてたガーゼを交換して繰り返し使うもので〔:現代のように使い捨てではない。〕、長く使うと汚れることから黒色や紺色、茶色など濃いめの色の布地が外皮に使われました。
    また前記のように軽くてサビないの利点を持つセルロイドは加工や成型がしやすいため、裏面に会社のロゴをデザインしたり、セルロイドを立体成型して吐息が下に流れるようにした眼鏡の曇らないマスクなどが工夫、製造されました。
    これはベースとなった大衆消費材がある程度大衆に浸透しますと、その基本形から特定の機能に特化することを目的に分化して行く一例といえます。
    ( 後述③⑴機能分化の例)

    (付記)
    [マスクの布で作られた外皮。外側の素材は?]
    [蛇腹型]と次号で紹介する[カラス天狗型]のマスクの素材には金属、セルロイドなどの他に表面(表)には
      ・ビロード(ベルベット)
      ・別珍(ベッチン)別名:綿ビロード
      ・黒朱子(くろしゅす・黒繻子):綿サテン
      ・皮革
    などが素材として使われています。

    以上の➀[呼吸器]②[蛇腹型]マスクの時代のあとには③流線型の[カラス天狗型マスク]が登場します。

  • ② 第二世代[蛇腹型]マスクコレクション:B-1~B-17

    (B-1)
       
    透明板の向こうの金属板が見えます

    (B-2)
       

    (B-3)
       

    (B-4)
       

    (B-5)
       

    (B-6)
       

    (B-7)
       

    (B-8)
       

    (B-9)
       
    ミツヤのロゴ入り

    (B-10)
       
    (箱絵に注目)

    (B-11)
       
    (箱絵に注目)

    (B-12)
       
    (箱絵に注目)

    (B-13)
       
    子供用に特化したマスク、赤い製品もあったようです
    透明板の向こうの金属板が見えます

    (B-14)
       
    紺色
    OBCのロゴ入り

    (B-15)
       

    (B-16)
       
    白色
    OBCのロゴ入り


    (B-17)
       


    [補足説明➀]
     :前号(A-2)(A-3)と本号(B-1)(B-2)はいずれも[福マスク]ですが、その口あて部分の材質が、
       金属網 → 麻のようなメッシュ → 透明セルロイド板 → 透かしのデザイン入りセルロイド
      へと変化(進歩)していったことがわかります。

    [補足説明②]
     :スペイン風邪の流行当時、曻地三郎少年は興味で当時のマスクを分解してみたようですが、実際当時のマスク
      を分解するとこの様になります。

    ↓外側

    ↑内側
    製造には手間がかかったことがわかります。

    (B-5)の野球印マスクを分解したものです。
    口あてのセルロイドのむこう側に円曲した金属板があり、このセルロイドと金属板が内側の白布地にとりつけられ、さらにその外側に黒布地をとりつけ、耳かけのひもをつけて完成です。



「日本のマスクの歴史と、独特な「マスク文化」の形成について (その4)」


(Ⅰ)マスク本来の進歩・発展から見た「マスクの歴史」
(1)「マスクの歴史」
➀ 第一世代《[呼吸器](レスピラートル)/金属素材使用の時代》
② 第二世代《[蛇腹型]/セルロイド素材普及の時代》      :前号まで
③ 第三世代《[カラス天狗型]普及の時代》           :本号

空気力学的に抵抗の少ない流線形のデザイン(:細長くて先端が丸くて後端もとがったサメなどの魚類の体形が典型的な形)がもてはやされたのは昭和5年(1930年)頃から戦後の昭和25年(1950年)頃にかけてのことで、それまでの箱型デザインに比べて斬新でスマートで、スピード感にあふれた流線形デザインは鉄道、自動車、飛行機、飛行船、おもちゃなどのデザインに盛んに取り入れられました。

〖流線形デザインの例〗
 
   

〖最新の中央リニア新幹線〗

〖旧デザインの例〗
   

現代ではさらに流体力学の発展により昔では考えられないデザインの新幹線などが生まれていますが、当時の流線形の流行はマスクのデザインにも取り入れられ流線型の[カラス(鳥)天狗型マスク]が登場します。

(筆者はこの形が日本の伝説上の妖怪 烏天狗 の容姿に似ているので[カラス(烏)天狗型マスク]と名付けました。)

   
カラス(烏)天狗
流線型マスク

かつて3度の大流行・パンデミックを起こし何億人もの死者を出したペスト(黒死病)の流行時には図のような容姿の医師「ペスト医師」が治療にあたりました。
その頭部には先端に生薬などの香料を詰めた鳥の嘴(くちばし)のような形のマスクを着けていましたが、しいていえば第三世代の[カラス天狗型]マスクは「ペスト医師」の付けていたマスクに似ているとも言えますが、そこは日本らしく日本の伝説上の妖怪の鳥天狗と、最先端の科学理論である「流体力学」が合体して発想して生まれたものと思っています。
この流線型の[カラス天狗型マスク]は、それまでの[蛇腹型マスク]より製造工程や成型が簡単で手間がかからず、材料費や製造コストも少なく、またマスクをかける動作も楽で、なにしろデザイン的に優れ格好が良く、その頃の流行の最先端を行くマスクだったと思われます。

そのため当時の好景気(大戦景気、大正成金、大正バブル)と相まって皮革やメッシュなどの高級材質を使った数多くの高価な流線型マスクが作られました。
またそれまで販売の対象(ターゲット)が特になかったマスクも、この頃から男女別や紳士用、婦人向け、子供用と消費する対象によってターゲットを絞った商品も多数売り出されました。

[蛇腹型マスク]とその後に登場したこの[カラス天狗型マスク]は同時代(昭和前期頃)には混在して使われていたと推測されますが、前回紹介した自家用で作られた手作りの「ガーゼマスク」(布マスク)も同時に使われていたと推測されます。
なお前記のように[蛇腹型マスク]も[カラス天狗型マスク]も内側にガーゼをあてて使用していました。

また形状的には前回紹介した蛇腹型マスクと今回登場のカラス天狗型(流線型)マスクは後世、現代で使われているプリーツ型(ひだ、折りめ型)マスクと立体型マスクへと進歩、発展して行くことになります。

蛇腹型マスク
プリーツ型(ひだ、折りめ型)マスク(現代)

カラス天狗型(流線型)マスク
立体型マスク (現代)

  • ③ 第三世代[カラス天狗型]のマスクコレクション:C-1 ~ C-22

    (C-1)
       
    商品名「流線型マスク」

    (C-2)
       

    (C-3)
       

    (C-4)
       

    (C-5)
       

    (C-6)
       

    (C-7)
       

    (C-8)
       

    (C-9)
       

    (C-10)
       

    (C-11)
       

    (C-12)
       

    (C-13)
       

    (C-14)
       
    “婦人向けのパッケージ”

    (C-15)
       
    “婦人向けのパッケージ”と”商品名”

    (C-16)
       
    “婦人向けのパッケージ”と”商品名”

    (C-17)
       
    和風

    (C-18)
       
    化粧品で有名な資生堂が作っていたマスクで価格30銭

    (C-19)
       

    (C-20)
       

    (C-21)
       

    (C-22)
     
    外箱だけですがいずれも婦人向けをアピールしています。



「日本のマスクの歴史と、独特な「マスク文化」の形成について (その5)」


(Ⅰ)マスク本来の進歩・発展から見た「マスクの歴史」
(1)「マスクの歴史」
➀ 第一世代《[呼吸器](レスピラートル)/金属素材使用の時代》
② 第二世代《[蛇腹型]/セルロイド素材普及の時代》
③ 第三世代《[カラス天狗型]普及の時代》           :前号まで
④ 第四世代《戦中~戦後混乱の時代そして現代》       :今月号

(2)マスクの進歩・発展の歴史に影響を与えた要因、背景について:今月号
  • そして戦争の時代[日中戦争(1937年~)対米開戦(1941年)]に突入しますと、物資不足の時代になります。

    (戦時中の標語:
                「すべてを戦争へ。」
                「ぜいたくは敵だ。」
                「欲しがりません 勝つまでは。」)

    そのためそれまで使われていた[蛇腹型マスク]や[カラス天狗型マスク]などの資源(:特に金属やセルロイドなどの石油資源。)を浪費するこれらのマスクに代わって、製造も簡単でコストもかからない簡易マスクが作られることになります。

    D-1~4は簡素化への移行期の製品です。
    D-1~3は成型のためのセルロイドが少し使われています。

    (D-1)
       

    (D-2)
       

    (D-3)
       

    D-4になるとセルロイドは使われていません。
    (D-4)
       

    D-5~7の形状は[カラス天狗型]ですが、戦争の拡大と長期化に伴って資源節約、産業統制の目的で作られた同業者の組合組織(日本医療衛生用品工業組合)が作った製品です。
    一方日中戦争の最中の昭和13年(1937年)に制定された物品販売価格取締規則により、戦局の悪化による物資の不足に便乗した便乗値上げなどを規制するために、昭和18年(1943年)には1万2000種類もの商品に公定価格が定められ、それらの商品には○の中に「公」の字が書かれていました。 戦時中から戦後の混乱期にかけてのこれらD-5~7のマスクにも〇公の表示が入れられました。

    (D-5)
       

    (D-6)
       

    (D-7)
       

    そして一層戦局が悪化し南方からの資源供給の枯渇がすすみますと、マスクの簡素化にさらに拍車がかかり、ペラペラの布一枚の布マスクやそれまでのマスクの内側にあてていたガーゼに紐の付いたような簡単なマスクまでもが登場する事態となりました。

    (D-8)
     

    (D-9)
     

    (D-10)
       

    この「愛国マスク」にはパッケージにパイロット、看護婦、陸軍兵士がイラストで描かれており、〝感冒予防、悪疫に〟(表面)、〝感冒来襲〟〝備えよ非常時、守れ生命線〟(裏面)など当時の標語に似た言葉が書かれており、いかにも戦時中の緊迫(逼迫)した情勢が見て取れます。

    (D-11)
     

    (D-12)
     

    この様な状況のため「マスクと言えば白いマスク」の姿が庶民の手作マスクとともに定着し、それが戦後の物資難の時代へと続き、その後しばらく昭和20~30年代にかけてはマスクといえば(D-12)のように白い「ガーゼマスク」(8枚重ねや10枚重ねナド)をさす時代が、のちに不織布(ふしょくふ)製のマスクが製品化されるまで続くことになります。[「ふしきふ」とは読みません]

    かつて昭和20~30年代当時富山県や奈良県などからの配置売薬業者の置いていった風邪の置き薬のパッケージにはこの様な「ガーゼマスク」をかけた美人の図柄が多用されました。

       

     

    この様な傾向は現代でもあり風邪薬のコマーシャルはほとんどが女性(美人)ですが、後ほど触れます日本独特の「マスク美人」という言葉が生まれるベースとなったり、外国では考えられない「マスク美人コンテスト」の開催へと発展して行くことになります。

    戦後は「イタリアかぜ (1947~1955年)、「アジアかぜ」(1957年)、「香港かぜ」(1967年)、「ソ連かぜ」(1977年)などのインフルエンザの大流行がありましたが、そのたびに白いマスク姿が街にあふれました。
    不織布(ふしょくふ)とはナイロン、ポリエステル、ポリエチレンなど繊維状に加工できる物質を使って、繊維を織らずに絡み合わせて布にしたもので、古くはフェルトが該当しますが、現在不織布と言うのは20世紀になって開発された工業製品を指します。
    マスクなどの原材料としての不織布(ふしょくふ)は日本では昭和33年(1958年)頃から国産化され、マスクや生理用ナプキン、湿布基材(:布の部分)、紙おむつ、おしぼり、化学ぞうきんなどの多くの応用製品を生み出しました。
    特に1960年代頃から顕在化して1980年代には国民病化した花粉症(:国民の約半数は花粉症を自覚。)の広がりとともにマスクの市場は拡大し、1990年代には(50枚で500円前後位の格安な)不織布製のマスクがマスク市場に台頭することになります。
    またその後の平成21年(2009年)の新型インフルエンザ[A/H1N1型]の流行時にはマスクの品切れが相次ぎ、キッチンペーパー、コーヒーフィルター、はては生理用ナプキンを利用したり、ある自治体の公式ウエッブサイトでは〝ガーゼとティッシュペーパー、輪ゴム〟で作る「手作りマスク」が紹介されるなどの事態となり、あたかも90年前のスペイン風邪当時の再来のような事態となりました。
    (この様な状況がその10年後の、スペイン風邪の流行からは100年後の2020年の世界的規模の新型コロナウイルス感染症の蔓延、パンデミックにより消毒用エタノールの欠品などにも拡大して比較にならない規模で再現されることになります。)
    そして平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の被災地や避難所その後の福島第二原発事故に伴う放射性物質対策、さらには大陸からのPM2.5や黄砂対策などにより日本人のマスク姿と「マスク文化」はさらに日常に定着して行くことになります。



(Ⅰ)マスク本来の進歩・発展から見た「マスクの歴史」(つづき)
(2)マスクの進歩・発展の歴史に影響を与えた要因や背景について
  • これまでは(1)「マスクの歴史」で明治の初めから戦後、そして現在に至るまでのマスクの歴史を時間を追って時系列的に見てきましたが、すでに触れたようにその歴史には様々な要因が影響を与えてきました。
    そこで本項では(2)としてそれらの要因を整理してみたいと思います。

    ➀ 材質の発展の観点から = 材質とデザイン(形)との関係・変遷に注意 =

    「材質の発展がデザインや機能の発展をもたらす。」:目薬の容器の発展と類似。
     ・金属。セルロイドの発明。 ⇒ 形(成型)に影響。
      金属に比べセルロイドは軽く成型しやすく、また会社のロゴマークなどのデザインも出来宣伝効果が高まる。
     ・皮革。メッシュ。別珍。ビロード。布。 ⇒ (外装)に影響。
     ・ガーゼ。
     ・不織布(ふしょくふ)の開発。ウレタンの開発。

    ② 歴史(感染症・経済状況・戦争…)的背景の観点から
     ・スペイン風邪(1918-1920)の流行(内務省啓発ポスター作成。)
      マスク装着による感染・死亡の差
        ↑
      高価なマスクを購入できるその家庭の経済状況 ≒ 食生活・住環境・医療環境の差
      このスペイン風邪を契機にマスクが日本人に定着することになります。
      (当時も手作りガーゼマスクも存在。)
     ・なおスペイン風邪(1918-1920)の流行当時には流線型[カラス天狗型マスク]は登場していなかったと推測されます。]
     ・その後のインフルエンザ、感冒の度重なる流行。
     ・近年では新型インフルエンザ[A/H1N1型](平成21年(2009年))流行。
      花粉症の国民病化。            ⇒ 普及に一層拍車。
      ※ それぞれの時代の背景を知る事が大事。※
     ・第一次世界大戦(1914~1918年)による好景気。
      (大戦景気、大正成金、大正バブル、)。~日中戦争(1937年~)対米開戦(1941年)までの昭和前期あたりは比較的豊かな時代(とくに都会では)。
        ⇒ マスクも多様化、高級化する。
         ( 紳士用高級マスク。高級革マスク。ビロードマスク。など)
     ・一転して日中戦争~太平洋戦争へ。:資源減少、材料不足。
      「すべてを戦争へ」「ぜいたくは敵だ」
      ガーゼに紐をつけただけの平型(ガーゼ)タイプがほとんどとなる。
      いわば昔からの手作りマスクが復活し手作りマスクに回帰したとも捉えられる。

    ③ 消費物資の発展パターンの観点から(マスクや車も大衆消費材一つ)
     大衆消費物質は通例、社会に行き渡ると
     1.機能分化が進み、機能を特化した商品や多機能商品が開発される。
     2.一方高級品化と一般向け(大衆向け)廉価品の普及化へと差別化が進み二極化します。
       (1)機能分化の例として
         :男女別、紳士向け、婦人用、子供用、眼鏡の曇らないマスク、小顔に見えるマスク(現代)など
       (2)衆消費物質の差別化、二極化の例として
         :高級品(皮革製、メッシュ製)の出現と格安品の大量生産。
          現代でも1箱50枚500円以下の商品と1枚10万円もする超高価なマスクまで売られています。



「日本のマスクの歴史と、独特な「マスク文化」の形成について (その6)」


(Ⅰ)マスク機能の進歩・発展から見た「マスクの歴史」
(1)「マスクの歴史」
➀ 第一世代《[呼吸器](レスピラートル)/金属素材使用の時代》
② 第二世代《[蛇腹型]/セルロイド素材普及の時代》
③ 第三世代《[カラス天狗型]普及の時代》
④ 第四世代《戦中~戦後混乱の時代そして現代》
(2)マスクの進歩・発展の歴史に影響を与えた要因、背景について:前号まで

(Ⅱ)日本の独特なマスク文化の形成・発展から見たマスクの歴史:本号
  • これまで本稿では日本におけるマスクの歴史を年代を追って見てきました。
    現在新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延により、世界中にマスクが受け入れられてきたとはいえ、「マスク文化」と称される日本人のマスクへの親しみは外国や外国人から見て奇異に写ることは確かなようです。
    そこで本章では明治時代以降日本人は何故「マスク」を受け入れ、そして日本で何故「マスク文化」として定着したのか探ってみたいと思います。

    ➀ 日本人の生活習慣の観点から 〈マスク文化の定着した土台(ベース)〉
      「きれい好きで衛生観念が高い」(江戸時代から)
      :明治維新で文明開化の時代となり、日本も欧米諸国に列して一等国(:今で言う「先進国」)の仲間入りをするために富国強兵を旗印に建国を進めることになりましたが、その基本には「衛生思想」(=公衆衛生)の普及が必要と考えられました。
      ちなみに「衛生」という言葉は明治期になって初代内務省衛生局長の長与専斎がドイツ語の〝hygiene(ヒュギエーネ)〟の概念を中国古代の書「荘子」から「衛生」の語をあてたもので、この「衛生思想」の普及にあたっては日本各地で衛生博覧会が開催されました。
    「衛生の手びき」〔明治13年(1880年)版〕
    「衛生丸」

    「公衆衛生博覧会 記念絵葉書」
       

     

      しかしながらこの国にあっては元々江戸時代から衛生観念が生活の一部にあったためこの思想がすんなりと受け入れられ普及したものと思われます。

    (具体例)
      ・明治維新 ⇒⇒ 一等国の証は衛生思想の普及から。
       (明治~昭和にかけて各地で衛生博覧会が開催され衛生思想が広まる。)
      ・手を良く洗う習慣(背景には:水資源が豊か。降雨量大。→水害が多発。)
       (参拝する前に手水で手を洗う。外食時の「おしぼり」。公衆手洗いの整備。
      ・入浴の習慣。(約75%がほぼ毎日入浴する。)
      ・土足/下足・上履きの生活。
      ・火葬。
      ・咳エチケット(「万病療治所」参照 )。
      ・箸の文化。(パンを食べるときは手掴み。)
      ・ウオシュレットを使う。(普及率80%)使用するトイレットペーパー長さ世界一。
       (日本人平均80cm/1回。米国人50cm/1回。)
      ・抗菌グッズ、除菌グッズの普及(や氾濫)。(家屋は勿論文房具まで。)
      ・道路につばを吐かない。(:都市の清潔度。)
      ・ゴミの分別収集の徹底。

    参考➀
    「人々もみな清潔だ。というのはこの町で一番よく見かける光景は、婦人たちが家の前、あるいは表通りに向かって開いた玄関先で、バスタブに入って体を洗っている姿であるからだ。私は女性がこれほど清潔にしている国は他に見たことがない。」
    (:幕末に訪日したイギリス外交官ローレンス・オリファント『エルギン卿遣日使節録』より)
    参考②
    「各家庭に風呂はあるけれど、東亰だけでも毎日30万人以上の人々が利用する800軒の銭湯がある。(略)東亰より入浴がさかんなところはない。」
    (:明治期に訪日したオーストリア芸術史家アドルフ・フィッシャー『明治日本印象記』より)
    参考③「日本人が世界で一番清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。」
    (:幕末に来日したトロイの遺跡発掘で有名なドイツ人考古学者ハインリッヒ・シュリーマン『シュリーマン旅行記 清国・日本』より)

    ② 日本人の感性・文化の観点から

    ≪日本人が日常品にも芸術品・美術品
    としての美的価値を求める一例≫
    (1) 日本人はなんでも美術品・芸術品にしてしまう。
      :(例)日本刀、刀の鍔、鎧、印籠、根付、蕎麦猪口…。
       ⇒例えば刀を本来の武器としての機能の重視だけでなく
        芸術品・美術品として美的価値を求める。
        (上記の例以外にもさほど高価でないものでも見た目にも良くする。)
         さらに付加価値をつけ進化をはじめる。
        (デザインに凝る。凝り性。職人芸。)
       ⇒⇒ 「おしゃれマスク」「デザインマスク」

    (2)外来文化を加工・改良し独自の発展をさせる能力。
       ⇒本来は感冒予防のマスクがその目的から逸脱、多様化して独特なマスク文化が形作られ定着する。

    = 以下の写真は本稿理解のための参考資料としてご覧ください =

      元々日本人には口を覆うことは儀礼的行為(神事・仏事)で行われており抵抗が無かった。

    伝統的口覆い(神事)
    (青森県西津軽郡鯵ヶ沢 白八幡宮大祭➀)


    (青森県西津軽郡鯵ヶ沢 白八幡宮大祭②)


    (青森県西津軽郡鯵ヶ沢 白八幡宮大祭③)


    (大阪府海老江 八坂神社)


    (堺市 大鳥大社)和紙と麻紐で作られている。


    伝統的口覆い(仏事)
    口覆い・マスクをつけてのご宝前(御戒壇)のお掃除風景(鎌倉 顕証寺)


    子供たちによる仏具のお手入れ
    (大阪清風寺)



      また江戸期には禁止されていたにもかかわらず、口を隠すような様々な頭巾(お高祖頭巾、宗次郎頭巾など)や
       覆面などが流行した。
    御高祖頭巾
    御高祖頭巾
    御高祖頭巾

      日本は口を隠す文化、西欧は目を隠す文化があり、例えばヒーローの顔姿にもその違いがあり、また日本の女性の
       多くは笑う時〝自然と口を隠す〟。

    口を隠す文化の一例。
    :口を隠すヒーロー(日本)の例
    「くらま天狗のおじさん」


    眼を隠すヒーロー(西欧文化圏)の例
    その①「かいけつゾロリ」
    眼を隠すヒーロー(西欧文化圏)の例
    その②「ばっとまん」
    画:おもてなし薬局
    宇津木直人先生

    口を隠す悪党(西欧)

    劇場上映案内チラシより

    「病の草紙」
    (平安末期~鎌倉初期:1100年代後期~1200年代前期)
    :口を隠す文化(笑うしぐさ)の一例。
    「病の草紙」風病(風病とは眼球振盪症などの中枢神経系の疾患。)
     に悩む男を見て口に手を当てて笑う女に注目。

    口を隠す文化の一例。

      礼儀、しぐさとしても食事時、食べ物を反芻しているときに大口をあけて話さない、話しながら食べない、
       そのようなときは口を隠す、覆うなどのしぐさをする。
     (:自然と身についてしまう。日本人にはそのようなしぐさは上品に感じる。)
      :(例)口をかくす(覆う)と気分が落ち着く。(:行きすぎると ⇒ マスク依存症に。)
        スッピン隠し。顔隠し。防寒。満員電車で顔が近くてもOK。
        おしゃれ。(:マスクをかけると目が強調される。目元美人。
        諺:〝目は口程に物を言う〟)

    [参考]
       「目元千両、口元万両」(〝美人を形容する故事ことわざ〝)
         目元は千両、口元は万両に値するほど魅力的であること。
         口元の価値の方が上位。

    「マスク美人コンテスト」


      マスク美人(:マスク美人コンテスト)。
       マスク女子。小顔マスク。(「小顔に見えマスク」)。伊達マスク。
       ファッションマスク。おしゃれマスク、悪臭退散マスク。
       UVカットマスク。夏マスク。
       地場産の布地を使用したマスク。ご当地マスク。
     (:デニムマスク。藍染マスク。伝統工芸マスク。…)

     :「マスク」のこの様な発展は他国では見られない日本独特の現象。
       海外では「マスク」とはあくまでも本来の感染防止の目的から逸脱を
       しない製品(もの)、単なる衛生材料にすぎない。



    「おしゃれマスク」

    〈結論〉
    以上の(Ⅰ)(Ⅱ)が複雑に絡み合って日本の「マスクの歴史」と現在の独特な「マスク文化」が形成されたと結論できます。

    〔(一社) 北多摩薬剤師会 会長 平井 有 / 令和3年(2021年)2月〕

[日本のマスク変遷史] (再録)

=エピローグ=

明治時代に外国より「マスク」が日本に伝わって150年近くの歳月が流れました。
長い150年の間でも口を覆うというマスクの本来の目的や基本的な形には変わりがありません。 大量に消費される大衆消費財の多くは、(電球→蛍光灯→LED。万年筆→ボールペン。鉛筆→シャープペンシル。ラジカセ→CD。)など後から発明された商品に取って代わられ、主役の座から去ってゆくのが消費文化の常ですが、マスクの様な原型がほとんど変わらない、(ある意味変わりようがないのですが、)このように息の長い製品は眼鏡などが思いつくくらいで、眼鏡もコンタクトレンズに一部取って代わられていますが、マスクの他にはありません。
そしてそれゆえにマスクの150年の長い歴史をたどりますと材質の向上をもたらした科学技術の進歩や、経済面での特に時の好景気や戦争の大きな影響がみてとれますし、大衆消費財の進化のパターン(高級化と廉価品化の二極化や機能特化品の開発。)も見て取れます。
もちろん衛生材料であるマスクはスペイン風邪(インフルエンザ)、新型コロナなどの伝染病の流行や花粉症、大気汚染などの影響を大きく受けます。
つまり大げさに言えばマスクの150年の歴史には、人間の営む経済や戦争、疾病などの歴史の一端も映し出されているともいえます。

そしてほんの少し前までは世界から見て奇異な光景に写った「日本人のマスク姿」は、コロナの蔓延で、世界中で一部強制義務化されるほどの普通の光景となりました。

一部の外国にはマスクの義務化を〝個人の自由を侵すもの〟として反対する人もいるようですが、この様にマスク(姿)が世界的に普及し広まった背景には、150年間の間になぜか日本という国でマスクが受け入れられ普及し「文化」として根付き、それが日本におけるコロナの爆発的蔓延(オーバーシュート)を防いだ一因として世界(とWHO)が認識したことがあると思われます。

そのなぜを探るのも本稿をまとめた一つの理由と言え、見方を変えるとマスクの歴史は一つの文化史でもあり、そこから日本の、日本人の民族性が見えてくる民族史であるとも思います。

厚生労働省の人口動態統計速報では、昨年の日本人の全死亡数はコロナ禍でも11年ぶりに減少、死亡数を客観的に比較できる指標の「超過死亡」でも日本は欧米に比べて大幅に少ないとの報告があります。 それは昨年夏からのウイルス干渉によるインフルエンザ等の感染症の減少の可能性のみならず「マスクの着用や手指の消毒の徹底」で感染症全般が減ったためと指摘されています。(2月23日付読売新聞)

また欧米のロックダウンと比べるとはるかに緩い(ゆるい)緊急事態宣言にもかかわらず日本人には何故か欧米と比較して新型コロナウイルスの感染数が少なく、致死率も低い…。 その要因をファクターXとして探す努力がなされています。
この日本人と「ファクターX」の概念を提唱した京大iPS細胞研究所所長、ノーベル医学生理学賞受賞の山中伸弥教授は、最近の報道ではファクターXとしてまず初めに取り上げたのが『高いマスクの着用率』でした。そしてもう一つの重要な因子として(日本人の持つ)コンプライアンス意識の高さ』を示し、さらに『遺伝的背景』『免疫学的特性』も挙げておられます。(1月17日付読売新聞)

しいて言えばファクターXには東アジアの民族に共通した要因もあると思われますが、このように「ファクターX」とはただ一つの要因ではないと思えます。

日本人には「マスク文化」に象徴される様々な行動の総称である明治時代以前から培われた公衆衛生観念(衛生思想)の歴史的な普及があり、また日本人は各自が普段からその基礎疾患に対してなんらかの治療、手を打っていること、それを裏付ける国民皆保険制度があり、万が一に備えての高度救命医療が準備されていること、保健所の存在、綿密なクラスターつぶし、BCGワクチン接種、肺炎球菌ワクチン接種や毎年のインフルエンザワクチン接種などによるオフターゲット効果と訓練免疫の獲得、交差免疫→獲得免疫、肥満度の低さ、喫煙率の低さ、大気汚染の低さ、日本家屋の風通し換気の良さ(住宅環境)(→換気の減る冬季は危険)、新品志向が高い (:リサイクルの否定ではない。)日本食(和食)(:魚、大豆-豆腐・納豆、発酵食品の摂取。EPA/AA比が高い→血栓症防止。ワルファリン有効遺伝子。)、握手・ハグの習慣がない、大声を出さない、発音、発声法がこもる(飛沫を飛ばさない会話)などなどの個々の要因は小さくともその積み重ね、総体的な行動内容が感染数、致死率の低さという大きな結果をもたらしているように思えます。

以上の点からしてもこの「衛生立国 日本」を築き上げてきたこの国の先人達の努力とその歴史に感謝をして本稿を終わりたいと思います。

《お願い》
:本稿は新型コロナウイルス感染症第三波の終息していない令和3年(2021年)2月時点で書かれたものです。
 その後の事態の推移によっては記述の一部に後日訂正が必要な箇所や齟齬が生じる可能性もあることを御了承ください。

[参考文献]
  • インターネット百科事典ウキペディア
  • 「史上最悪のインフルエンザ(忘れられたパンデミック)」(アルフレッド・W・クロスビー)〈みすず書房〉
  • 「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ(人類とウイルスの第一次世界戦争)」(速水融解)〈藤原書店〉
  • 「流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録」(内務省衛生局 編)〈東洋文庫〉
  • 「感染爆発 見えざる敵=ウイルスに挑む」(デイビッド・ゲッツ)〈金の星社〉
  • 「もっと面白い廣告」(天野祐吉)〈ちくま文庫〉
  • 「江戸 病草紙」(立川昭二)〈ちくま学芸文庫〉
  • 「病気の社会史」(立川昭二)〈岩波現代文庫〉
  • 「病が語る日本史」(酒井シズ)〈講談社学術文庫〉
  • 「感染症の世界史」(石 弘之)〈角川ソフィア文庫〉
  • 「感染症の日本史」(磯田道史)〈文春新書〉
  • 「感染症の中国史」(飯島 渉)〈中公新書〉
  • 「ここまでわかった 新型コロナ」(上久保靖彦・小川榮太郎)〈W∧C〉
  • 「新型コロナ 7つの謎」(宮坂昌之)〈講談社ブルーバックス〉

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