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昔はこんな薬もありました 1

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~ 内服ワクチン ~



1. ちぢれ毛なおしの薬(ちぢれけなをし薬)

  • ちぢれ毛なおしの薬
  • チラシ(文面からすると明治時代の中頃か)に謳うところの要点を挙げると以下のようになります。

    この薬は“天下一品無類の妙薬”だそうで“開明(文明開化)の今日では醫道はますます進歩し含蜜家(せいみか=ケミカルの転語、つまり化学者)は次々に新薬を発明しております。”“この『ちぢれ毛なおしの薬』は今まで世の中に流布販売されていたクセナオシ薬のような当座の一時しのぎの薬ではない!!”“この『ちぢれ毛なおしの薬』は一度用いれば縮れ毛が延びることはもちろんの事、如何なる白髪も赤毛も生涯にわたってちぢれ毛が全治する。ゆえに天下一品無類の妙薬である。”のだそうです。
    このような妙薬にもかかわらず現物はいまだ入手しておりません。その訳はたぶん御試用(おためし)いただいた患者諸君が怒って捨ててしまったため現存していないのではないかと推察しております。(成分が何だったのか興味あります。)


2. 三共内服ワクチン

  • 三共内服ワクチン
  • 明治30年(1897年)に創設され、今に至るも存続する大手製薬メーカー三共(現在は第一三共となる。)の作っていた、なんと!!恐るべき伝染病のチフス・赤痢・コレラ…の内服ワクチンのチラシで、時代は昭和7~18年(:東京市日本橋区は明治23年~昭和18年存在した地番。)と考察されます。(昭和7年については後述。)

    チフスは窒扶斯( Typhus )と書き、かの漢方の聖典の傷寒(雑病)論はこの伝染病の治療方法を著わしたものとの説もあるくらい近代に至るまで人類にとって最悪の伝染病の一つでした。 チフスワクチンは現品がコレクション入りしています。(写真)(メーカーによると昭和7年から製造していたとのこと。)現代ではチフス治療はやはり第一三共のクロマイが最有力候補。

    赤痢は平安時代の医書にもすでに赤痢と記されている伝染病で、疫痢は重症な子供の細菌性赤痢のこと。 現代では補液とアメーバ赤痢にはフラジールなどが、細菌性赤痢にはNQsやホスミシンなどが最有力候補。

    コレラは初めは文政5年(1823年)に西洋より大陸を経由して本朝に伝わった案外新しい伝染病で、英名の Cholera を転語して虎列刺と称したもので、虎が刺すように激烈 なという意味があり、俗にはコロリとか鉄砲とも称した霍乱の病。 江戸~明治期あたりでは硫酸規尼涅(キニーネ)や阿片丁幾(チンキ)が用いられました。 現代も予防のワクチンはあることはあるのですが、それは皮下接種するもので、効果は確実ではないとのことです。(医学大辞典による)

    このチラシによりますとこれらはすべて簡易な内服薬で、しかも低価格ながら、製品が優秀であることは、治療界に絶大な信用を有している三共が責任をもって保證するとのことであります。 しかも薬局で簡単に買えるという、効き目があったかどうかはともかく、なんともうらやましい時代のチラシです。

    三共-チフス内服ワクチン
    三共-チフス内服ワクチン

    三共-チフス内服ワクチン
    小児用内服ワクチン →  小児用内服ワクチン  小児用内服ワクチン


3. 衛生課(保健所)

  • 現在の保健所衛生課には、食品薬務係と、試験検査係があり、以下のような仕事をしておりますが、この時代はワクチンの供給も行っていたのですね。 現在は厚生労働省所轄ですが、当時は内務省所轄。

    内務省とは、明治6年(1873)初代内務卿大久保利通のもとに創設されて以来、敗戦後の昭和22年(1947)12月アメリカ占領軍によって解体されるまで、大蔵省と並び立って霞ケ関に君臨した名門官庁。 当時「政策は大蔵省、政府は内務省」といわれて絶大な権力を誇った内務省は、現在の総務省、国土交通省、厚生労働省、警察庁をあわせた巨大な権限をもちながら、きわめて簡素な行政機構と効率的な地方行政を実現していました。 「国の国たるゆえんのもと」として明治国家に不可欠の行政機構でした。
    内服ワクチン
    現在の保健所衛生課の仕事
    ■食品薬務係
    食中毒の発生を防ぐため、飲食店の食品営業許可・監視指導や食中毒発生時の調査などを担当している。
    狂犬病という犬と人間の共通な病気を防ぐために、野良犬の捕獲などを担当。迷い犬の捕獲や、行方不明犬の問い合わせなども担当している。
    薬に関する安全性を確保するために、薬局や薬店などの開設許可・監視指導を行っている。また、薬物乱用の防止や献血推進なども行っている。
    ■試験検査係

    上水道、飲用水などの水の検査、食品の検査、血清、伝染病菌などの検査というように、試験検査全般を担当している。

    内服ワクチン 内服ワクチン


4. 北里研究所製

  • 日本最初の伝染病研究所は明治25年(1892)10月芝公園の福沢諭吉邸の一角に誕生。 「世界の北里」の才能が日本において埋もれるのを憂えた福沢諭吉が北里柴三郎に提供したものであった。 その後国立なり白金台に移転したが、大正3年大隈内閣が研究所を内務省から文部省へ移管したのに反対し、所長の北里とともに仝所員が辞職した。 大正4年11月北里が私財を役じて創立した北里研究所がこの地に完成。コッホ誕生にちなんで12月11日開所した。
    北里柴三郎

    北里柴三郎 北里柴三郎は嘉永5年(1853年)現在の熊本県阿蘇郡小国町北里に生まれ、藩校時習館、熊本医学校でオランダ人医師マンスフェルトに出会い、医学の道を志した。 更に、東京医学校(東大医学部の前身)でドイツ医学を学び、明治16年卒業後、長与専斎が局長であった日本の衛生行政に携わるべく内務省衛生局に奉職した。

    そこでは、当時流行したコレラや赤痢の原因調査等を手掛け、明治19年からドイツのローベルト・コッホのもとへ留学した。 ここで北里は破傷風菌の純粋培養に成功し、引き続き破傷風毒素に対する免疫抗体を発見することによって血清療法を確立した。 破傷風菌純粋培養法と破傷風菌抗毒素の発見は前人未踏のもので、世界の医学界を驚嘆させた。

    明治25年、帰国した北里は福沢諭吉らの援助によって、芝公園にわが国最初の私立伝染病研究所を創立し、同所が明治32年内務省に移管後も所長として活躍した。 この間、香港に流行したペストの調査に出張して短時日で自らペスト菌を発見した後、志賀潔の赤痢菌発見を指導した。 土筆ヶ岡養生園を開設して結核の研究と治療に当たった。

    北里博士は、かねがね伝染病の研究は、衛生行政と表裏一体でなければならず、国立伝染病研究所は内務省所管であるべきであるとの信念をもって伝染病の研究所の運営にあたった。 しかし、大正3年11月、国立伝染病研究所は突如文部省に移管され、北里博士は素志に反する政府のやり方を承服できず、所長を辞任し、直ちに私立北里研究所を設立した。

    大正6年、福沢諭吉の恩義に報いるため慶應義塾大学医学部を創設し、医学部長として、また顧問として終生その発展に尽力した。 また、日本医師会長を始め多くの医学団体の要職に就き、わが国の公衆衛生特に結核の予防のほか、医学、医学教育の発展に大きな足跡をのこした。

    昭和6年、脳溢血のため東京麻布の自邸にて逝去。東京・青山墓地に永眠する。(享年78歳)

    昭和29年、北里柴三郎生誕100年の記念事業として、土筆ヶ岡養生園の跡地に付属病院を再建(昭和20年、戦火で焼失)。
    昭和37年、北里研究所の創立50周記念事業として、学校法人北里学園を創立し、北里大学を設置した。
    腸チフスワクチン 腸チフスワクチン
    北里研究所製の未開封の逸品です。印に株式会社塩野義商店/道修町とありますが、現在の塩野義製薬の前身に当たるものでしょう。

    明治11年、初代塩野義三郎、大阪道修町にて薬種問屋 塩野義三郎商店を創業、和漢薬を販売。
    明治43年、塩野製薬所(大阪市福島区)を建設。
    大正8年、塩野義三郎商店と塩野製薬所を合併、株式会社塩野義商店に組織変更。
    大正13年、大阪市道修町に本社新社屋を建設とのこと。
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5. ヘテロゲン

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