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薬と歴史シリーズ 3

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~ 疱瘡・痘瘡・天然痘 そして種痘 ~

  • 今回は薬と歴史(古資料・古文献・古書散策)シリーズその3として“宗教と薬”に続いて、一時は死語となったはずの疱瘡、痘瘡、天然痘、種痘等々の言葉を振り返りながらこれらにまつわる品々を紹介したいと思います。

  • 御存じのように天然痘は世界保健機構(WHO)によって1980年(昭和55年)10月26日全世界からの撲滅が宣言されましたが、天然痘ウイルスの恐怖は21世紀になった今も返ってテロの手段として、生物兵器として…増しつつあり、天然痘ワクチンの備蓄をはじめ種痘接種の技術研修も行われているのが昨今の状況です。天然痘テロに備えて、まずは天然痘の歴史の散策から・・・。
  • さて江戸時代をとおして日本人の死因の第一位を占めていたひとつは疱瘡といわれており、例えば飛騨のある寺院の江戸時代後期の過去帳には死因のトップは疱瘡で、そのうち69%は乳幼児であったと記録されています。
  • そもそも天然痘の発祥地はインドとその周辺といわれており、ヨーロッパには12世紀の十字軍の遠征の頃に伝わり、16世紀以降は流行が広がりまた繰り返され、流行の最盛期には感染を免れた人はわずかに数%、4分の1は死亡し、半数はあばた(痘痕)を持っていたとのことです。
  • 本朝にはヨーロッパよりもかなり早く、仏教伝来の頃には大陸から伝わり奈良時代にはしばしば流行したと記録されており、史書に初めて登場するのは天平7年(735年)の『続日本記』といわれております。その後近世にいたるまで天然痘はしばしば流行を繰り返し、『日本疾病史』(富士川游)によれば天平7年(735年)から天保9年(1838年)までの1103年の間に58回もの大流行が記録されており、また和歌山県の某家に伝わる古文書によると文政11年(1828年)から明治6年(1873年)までの45年間にわたり6人もの子供たちが天然痘にかかったとのことです。
  • しかしながら天然痘は繰り返す流行にもかかかわらずペストやコレラのように瞬時に大量死という事態にはならず、天然痘は麻疹(はしか)など同じく一度かかれば二度とかからないという強い免疫性があることから、医史学者の立川昭二は「日本人は天然痘となかば馴れ親しんできた。」と表現しています。
  • このように歴史の長い疱瘡、天然痘には別名も多く奈良時代には“豌豆瘡(わんづかさ)”“裳瘡(もかさ)”、鎌倉時代には“赤斑瘡(あかもかさ)”、室町時代には“痘瘡”や“いもやみ”、江戸時 代では“疱瘡”“痘疹”や“いも”などと呼ばれ、また時代を越えてこれらの言葉が使われてきました。現代では学術用語としては“痘瘡”、厳密には“痘そう”、一般には“天然痘”と呼ばれています。
  • “痘瘡”“疱瘡”“天然痘”の病態は特徴的な症状をたどりますが、まず“発疹期”に始まり“小疱・膿疱期”を経て痂(かさぶた・かさ)のできる“結痂期”となり最後“落痂期”で終わります。よって死に至らぬまでも前記のようなあばた(痘痕)面になって一生不縁に終わった女性たち(;安政4年(1857年)に来日したオランダ人医師ポンペは日本人の三分の一はあばた面と言って驚いている。)や、失明して座頭(;勝新太郎の座頭市は疱瘡の後遺症だったわけで、それにしてはあばた面でなかった?)や瞽女(ごぜ;三味線を弾き唄を歌いなどして銭を乞う盲目の女性。)となったものや世継が死亡したためお家断絶となった武士など・・・悲話に枚挙をいとわなかったと思われます。
  • よって“疱瘡”にまつわる次のような歌、川柳、言葉が残されています。
    “痘瘡の神とは誰か名付けん  悪魔外道の祟りなるもの”
    “痘神(いもがみ)に惚れられて娘値が下がり”
    “ほうそうは器量定め”
    モース・コレクションに登場する1890年ころの瞽女 (写真左)
    モース・コレクションに登場する1890年ころの瞽女の写真。こうした行為を角付(かどづけ)という。
    塩田三郎 (写真右)
    元冶元年(1864年)に幕府が欧州に派遣した使節の一員の塩田三郎の写真。 フランス語が堪能だったが、あばた面(づら)が目立ち、パリジェンヌにはもてなかったらしい。
  • 上記の川柳に“痘神(いもがみ)”という言葉がありますが、古代より疾病の流行期には神を祭り祈ることが行われていますが、“疱瘡”についても例外でなく江戸期には“痘瘡”の流行期には疫病の神を祭ったり、江戸中期に至ると“痘瘡”の神として特定の神を考えるようになり“痘瘡”は“疱瘡神”“痘神”のなせる業であり、この神に祈願すれば“痘瘡”に患らないと信じたわけです。
    こうなるとまやかしのように思われますが、身近なところでは立川の諏訪神社境内にも正面右手に“疱瘡神”が祭られており、下の札は江戸期の熊野山峯藥師・鳳來寺の除疫の守と疱瘡の守の御札です。
疱瘡神 疱瘡守 除疫守
  • このように“疱瘡神”に祈る以外に“痘瘡”の治療がほとんど無力の時代にあっては、“痘瘡”の治療はまず患者を隔離することが最善の策で、家族は隔離した患者に毎日食事、薬、衣服を運び医師の往診を頼み山男を雇うため、“痘瘡百貫”と称されるように中等以下の家ではひとり“痘瘡”の患者が出ると身代を潰してしまうことも少なくなかったといわれています。
  • ここで古書に見られる“疱瘡”の治療法について紹介したいと思います。
    江戸時代のいわば家庭の医学書といえる元禄8年(1694年)に書かれた『救民妙薬』には小児疱瘡藥として“赤牛の歯を粉にして用いる”、疱瘡の目に入ったのには“ぬるでの脂(やに)を乳にてとき、目の中に少しさしてよし・・・。”などの治療法が書かれております。
    救民妙薬
    《 救民妙薬 》
    また天保9年(1839年)に書かれた『経験良方』には疱瘡藥として疱瘡の虚して発疹することが難しくなったものには金龍散(金硫黄、龍脳、沙糖)を、同じく雑腹蘭(サフラン)を、また腐敗しただれた疱瘡には幾那防腐飲(幾那、王攻(まい)瑰花)を、同じくただれた疱瘡には緑礬精などの処方が挙げられております。
    金龍散・幾那防腐飲
    金龍散 幾那防腐飲
    《 経験良方 》
  • 前記のように天然痘には麻疹(はしか)などと同じく一度かかれば一生二度とかからないという強い免疫性があり、このことは昔より経験的に知られていました。
    そこで出来るだけ軽く“痘瘡”にかかって疫から逃れる方法はないかと考えられたのが種痘で、病人の隔離という消極的な避瘡に比べると、積極的な避瘡といえます。
  • 種痘法の発祥の地は中央アジア辺りといわれており、そこから東西に分かれて東に伝わったものが中国から日本へと、また西に伝わったものがトルコからヨーロッパへと伝わりジェンナーの牛痘接種法へと発展したと考えられております。
  • 延享1年(1744年)頃から中国より日本へ伝わった種痘法は痘痂(かさぶた)を使うもので、乾燥し粉末にした痘痂を鼻孔に吹き込む乾苗法と湿らして丸めて鼻孔に押し込める水苗法がありました。
  • 一方ヨーロッパへと伝わった種痘法は痘漿(水泡の液)を採り、それをランセットで腕に作った傷に塗り込む方法でしたが、いずれの方法もジェンナーの牛痘と区別して人痘接種と呼んでいます。
  • イギリスの片田舎に住んでいたジェンナーは牛の天然痘(;乳房に症状があらわれる)つまり牛痘にかかった人は(人の)天然痘にかからないという通説から1796年に牛痘接種法を発見しました。
  • このジェンナーの牛痘接種法の情報が我国に届いたのは1801年か1802年の頃といわれており、また牛痘を最初に日本人に植えてみせたのは文政6年(1823年)に来朝したシーボルトといわれております。 しかしながらこの時の痘苗は長い航海のため効力を失っており、結局ジェンナーの成功から50余年を経た嘉永2年(1849年)バタビアから取り寄せられた牛痘苗によって長崎出島の蘭館医モーニケにより行われたのが本邦での牛痘接種の始まりで、この原苗がたちまち全国へと広まり明治に至るまでの牛痘接種の普及の始祖とされております。
  • 以上のような疱瘡、痘瘡、天然痘、種痘の歴史を背景に、以下のこれらにまつわる品々を御覧下さい。


  • 各種種痘証明書
    古いものでは明治10年(1877年)ころからの全国各地での種痘証明書です。 特に赤色の証明書が目立ちますが、これは上記の痘瘡には赤色が良いとの風習と関係があるのかもしれません。
    種痘証明書 種痘証明書 種痘証明書 種痘証明書
    種痘証明書 種痘証明書 種痘証明書 種痘証明書
    種痘証明書 種痘証明書 種痘証明書 種痘証明書
    種痘証明書 種痘証明書
    種痘証明書 種痘証明書
  • 種痘醫 栗原慎齋氏の明治34年(1901年)の醫師現在届 および 種痘証明書の版木。
    〔栗原慎齋医師は天保6年(1835年)生れの平民でした。〕
    醫師現在届 醫師現在届 醫師現在届
    種痘証明書の版木 種痘器械
                        《 版木 》                          《 種痘器械 》
    種痘器械
    牛痘苗製造準備報告
    日本私立衛生會の牛痘苗製造準備報告〔明治26年(1893年)〕

  • 江戸期の痘瘡、麻疹(はしか)、水痘(水疱瘡)養生の錦絵。
    食して悪しきものとして、鳥と卵は百日間忌むなどの禁忌が書かれています。
    また顔に赤い発疹の出ているこの子供達は赤い半天や襦袢を着ていますが、当時は痘瘡患者の周囲は衣類から調度、玩具にいたるまですべて赤色ずくめにする風習がありました。

    それは“痘の色は赤きをよしとする故(;発疹が赤いほど経過が良い)”ばかりでなく、痘鬼が赤色を嫌う(太古からの原始的観念では魔除け一般に赤色が使われきた。)ことからきているものです。
    江戸期の痘瘡、麻疹(はしか)、水痘(水疱瘡)養生の錦絵
    (縦36.8cm × 横 24.7cm )

“疱瘡余聞”
  • 世の中には難読地名があり、その中でも突出しているのが京都の“一口”で、これはイチクチ
    ではなく「イモアライ」と読みます。
    “一口”をなぜ「イモアライ」と読むのか? その由来は諸説紛々で通説なく、以下のような諸説が確認されています。
    • 昔土地を耕すとき四角に区画して神事“地貰い”を行ったが、この地貰いが“いもあらい”に転じ、また四角の字が口に相当することから“一口=いもあらい”となった。
    • 自然災害時の斎(さい)を祓うところからきた。
    • 昔、弘法大師空海がこの地を通りかかった時、一人の農夫が何かを洗っていたので問うと、農夫は「芋である。」と言って「ひとくち」に食べてしまったことからきた。
    • 豊巨秀吉が伏見城で宴を催し、和歌を書いた短冊を宇治川に流したところ、大きな鯉が現れて一口に飲み込んだことからきた。
    しかしながら・・は伝記にまつわるよくあるパターンで、・・の方がより有力とされていますが、地名の由来はその地域だけの検索では解明できないことが多く、この「イモアライ」という名称も昔は各地にあったといわれ東京でも3カ所が確認されています。 つまり九段、靖国神社裏の“一口坂”も昔は「イモアライザカ」と呼ばれ、六本木の交差点近くの“芋洗坂”、御茶ノ水駅のすぐ脇にある“淡路坂”も昔は「イモアライザカ」と呼ばれていました。
    本文で“疱瘡”は“いも”とか“いもやみ”とか呼ばれていたと書きましたが、結局「イモ」は“芋”でなく“疱瘡”のことで、「イモアライ」は“疱瘡を治す神様”(例;芋洗地蔵)を意味し、つまり京都の“一口”も洪水の中で疫病、“疱瘡”が発生することを恐れてつけた“疱瘡除け”の地名と推測されるのが正しいと考えられています。こんなところにも疱瘡の歴史が垣間見られるわけです。



(参考文献)
・日本疾病史 東洋文庫 富士川 游 著
・江戸病草子 筑摩書房 立川昭二 著
・幕末写真の時代 筑摩書房 小沢 健志 編
・百年前の日本 小学館 エドワード・S・モース・コレクション


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